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MALL DESIGN

羽生市商店街インタビュー Vol.2
「被服店の三越屋さん」

MALL DESIGN(旧:仮称NEXT羽生プロジェクト)では、これからの羽生市の商店街を考えるために、現在、羽生市の商店街で商いをされている方や、かつて商いをしていた方へのインタビューを行い、記事として公開をします。

取材/編集/撮影:羽生第一高等学校 大塚、栗原、柴田、田中
※地域コミュニケーションプロジェクトとして羽生第一高等学校の生徒が取材・編集・撮影をしています。
取材場所:羽生市松原通り商店街 被服店「三越屋」旧店舗内

今回は、かつて羽生市の松原通り商店街に被服店「三越屋」として店を構え、七夕祭りなど羽生市の活性化に多大に尽力された元事業主(岡田正行さん)の長女である齋藤行枝さんに、当時のお店、商店街の様子について取材しました。

インタビュー記事メイン写真01

買い物客で賑わった「三越屋」

―羽生市でお店を構えたきっかけをご存知ですか?

父が羽生市須影出身で母は岩瀬なんですけど、ここに初めから住んでいたわけではないんですが、父方の叔父が被服屋さんをやっていたので、はじめは下請けをやっていました。父が商売をやりたいということでお店を始め、初めは小さいお店で、6畳くらいでした。その後、もともと文房具屋さんだったこの店舗を譲り受けて移転し、その後に建て替えて、という感じです。

—創業はいつ頃でしたか?

齋藤さん(以下省略):お店そのものは、昭和32年くらいから始めたんですね。羽生の市民プラザがジャスコ(現在のイオンの旧商号)だった時に、うち(三越屋)も出店をしたんです。当時は私は千葉県に居たんですが、お店を手伝うということでこっち(羽生市)に戻ってきて、ここのお店とジャスコさんの中に出店、それと一時的に野田のジャスコさん、草加の東武ストアさんと何店舗か出店した時がありました。そのころは7時に閉店で、閉店時間が早かったんです。ですが時間がだんだんと伸びてきてしまい、人のやりくりなども大変になってしまったので、他のお店を閉めて最終的にはここ(商店街の三越屋)だけになってしまったんですよね。

「自分で仕入れたものが売れる」楽しさ

—三越屋さんはどのような商品を扱っていたんですか?

取扱商品は、衣料品関係です。婦人服、肌着、ベビー服、大体揃えてました。仕入れは東京の問屋がほとんどでした。多いときは、一週間に2、3回は仕入れに行きました。東京の小伝馬町で降りると問屋街が集中していて、その問屋さんで自分でチョイスして買ってきてました。まあ楽しいと思いますよ。自分で買ってきたものが売れるんだから、やりがいがありますよね。そういう形でやっていました。今の市民プラザがジャスコだった頃は若い人向けの婦人服を販売していて、その頃は原宿の商品が流行っていたんですよ。これいいな、と思った服のタグのメーカーを見て電話番号を見て電話でアポイントメントをとっていました。自分で開拓するのは楽しかったです。商売の楽しさはそこにありますよね。毎週仕入れの帰りに原宿を歩き回ってメーカーを探していました。

—お客様の年齢層はどれくらいでしたか?

昭和3、40年代の頃、羽生市は被服が盛んな都市で、大勢の女性が地方などから仕事にきていたんですよ。昔はそんなに休みがなく、お正月やお盆しか帰らないので、帰る時に新しい服を着て帰るという感じだったんです。お土産にお母さんやおばあちゃんに何か買っていく、というのもありました。小学校のジャージなどもやっていたので、年齢層は幅広かったと思います。
父は商店街を賑やかにするのが好きだったと思います。上に立ってドンと構えるよりも皆で色々やるのが好きだった。七夕の飾りつけなんかも、みなさんは1、2個作ってもらうんですけど、それだけだと足りないので何個も何個も作って綺麗に見せてました。買ったものだけじゃなくて工夫して作るのが好きだった。一緒に行動するけど、自分はより動く、そしたら皆がもっと動いてくれる。お客様みんなが楽しめる。それは自分たちも楽しい。「こんなお店があったからまた行こう」ってなるじゃない。今の夏祭りだと露天商だけで地元のお店そのものは見ないから、人は集まるけど、売り上げにはならないですよね。お神輿見て終わっちゃうから。これを地域活性化に繋げたいのであればもう少し考えた方がいいとは思う。

自分で何でも考えて自分で取りあえず行動

—お店をやられていた時に目標とかはありましたか?

うーん、赤字を出さないことが一番なんだけど、基本的には父親が資金や経営をやっていたので、私は仕入れと販売をやっていたんですけど、この人だったらきっと買ってくれるだろうなって思って仕入れたり。あー、この人に合いそうだなとか。その人に合わせて仕入れる事もあったかな。

—常連さんとかに合わせてですか?

そうね、今だとパソコンとかでパーッと出来ちゃうけど昔はないから、どういうものを買ったのかとかをメモって顧客カードとして作って。

—好みとかを?

そう、そうすると覚えるんだよね、人間ってね。学生の時は記憶力悪いなと思ったんだけどお金が絡むとね(笑)

—(笑)

商売になると、あ!あの人!ってなるの。ここのお店(三越屋)を始めた時は、市内の工場に働きに来ている人がたくさんいたの。でも、給料が安かったの昔はね。
たぶん、私が皆さんくらいの時の初任給は6万円くらい。私が子供の時は1万いくらか位だった。もちろん物価は安かったけど。だからお金がいっぺんに払えない人もいたから、分割払いっていうのも父親が取り入れてて。中には逃げられちゃったことがあったみたいですよ。

—来てくれたお客さんとのコミュニケーションはありましたか?

それはそれはもちろん。こっちのお店(三越屋)なんて顧客がほとんど。常連のお客さんとかは奥のテーブルでお茶を飲んで一緒にしゃべって1時間でも話して帰る人もいましたね。

一同)今じゃコミュニケーションをとる人が少なくなって、先日行ったらユニクロはかごを置いただけで会計が出来ちゃうもの。すごいですよね。でも今は今の、昔は昔の良さがあるから。やはり町の商店街は商店街でのやり方を考えた方がいいと思う。

—当時、お店をやられてた時に人気があったものとかはなんですか?

あまりにも長かったからよく分からないけど、でもよく巣鴨で売っている赤いパンツとかがあるでしょう。あれは、申年の時に赤いものを身に付けると長生きする、寝込まない、病気にならないって言われてたので申年の時はしっかり仕入れて売ったりしたことはあった。人気商品は、お店を開いていた期間も長かったので、その時々で変化していました。閉店前の半年は半額セールをして、本当の最後は「持って行ってください」状態にして綺麗になくなりました。少し残ったのは自分たちで使ったりして。良い時期に閉店できたかなって思います。

—お店を閉業された時期はいつ頃でしょうか?

三越屋を閉めたのが平成9年でした。一時は手広くやっていた時もあったんですが、最終的にはまたここに戻ってきました。父もその時70歳を過ぎていたので、そろそろ、となりました。今は車で買い物へ行きますよね。なので駐車場が広いところでないとお買い物行けないですよね。だけど私たちが子供の頃は自転車で買い物に来てたの。だからここに駐車場がなくてもやっていけたんですよ。凄く賑やかだったの。結局時代の流れで買い物の仕方も変わったので、来店するお客さんの数も減りますよね。で、父親も高齢になってきたし、赤字になってまで営業したくないというのが父親のプライドだったの。自分で始めた店だから自分で閉める、というかたちで閉めたんです。私共は「三越屋」という名前でやっていたんですけど、「三越屋さん、もうちょっと(お店を)やってもいいんじゃないですか。」という話もいただいたりして。父も商工会の役員などやらせて頂いたていたので、商工会さんからもいろいろお話いただいたんですが、頑固ですからね、昔の人は(笑)。負の財産を子供たちに残したくないということで、借金もない段階できれいに清算したいという父の意志で閉めました。

インタビュー記事メイン写真02

活気にあふれていた七夕の商店街

ここは松原通りという商店街なんですけれども、私たちが皆さんくらいの時(10代?)はほとんどの店が開いていまして、シャッター街ではなかったんですよね。七夕祭りの時は、家から向かいの家に長い物干し竿、竹を通してそこにいろいろ七夕の飾りをつけていた。昔は「子供会」というのがあったんですけど、地区の人が盆踊りを子供と保護者で踊っていたんです。盆踊りを本格的に習っているおばあちゃまたちがいますよね、そういう人たちもいて、一大イベントだったんです。それを何年もやってました。頭がぶつかるくらいの笹で子供が手を上げて触わって歩くような、凄く楽しかったんですよ。11月は、通りを歩行者天国にして、子供さんたちも乗って遊ぶようなミニSLを走らせたこともありました。金魚すくいとか、ミニお祭りみたいな感じのものを商店街の人たちが自らやっていたんです。そういう時代が十何年か続いていた。それでも父が会長を辞めて、2、3年たったころから商店街に陰りがでてきて、だんだん少なくなってしまいました。縮小、縮小、縮小という感じでしたが、活気に溢れていた当時はお祭りの時のようにいっぱい人が集まっていました。

—ちょっと想像がつきにくいですね(笑)

そうだよねぇ(笑)活気はありました。当時の店主の平均年齢が50歳前後だったのでやる気もあったというか、勢いもありました。

三越屋前の七夕祭りの様子(齋藤さんご提供写真)

未来の商店街に期待すること

—では未来の商店街には何を期待していますか?

店主)今のように車がたくさん通っているのではなく歩いている人がたくさんいる商店街がいいよね。この間私が姫路で旅行してきたんですけど、姫路の大きい商店街があってずーと姫路城まで繋がっているの。そこには歩いてる人がいっぱいいたの。そういう風に人がいっぱい歩いてるってことが街の活性化じゃないかなと思う。やっぱり車で出かけちゃうと見逃してしまうことがいっぱいある。歩くことが家やお店などに興味をもつきっかけになるのかなと思った。宮島にも行ったのね。お土産屋さんは狭いしどこも同じものを売ってるんだけど、あっちにもこっちにも寄っちゃうじゃない。ああいう感覚ってほしいですよね。なんか羨ましいなと思っちゃう。昔のこの辺は婦人服や、他にも肉屋や魚屋があってうちの父は「横のスーパー」と呼んでいた。今の時代は跡を取るとか取らないとかあるし難しいことですけどね。またそういう楽しいところが出来たら人が集まるところになるのかなと思う。変な話、市民プラザも展示会じゃなくて露店のようなお店コーナーでもいいですよね。羽生の名物を一店舗でやるんじゃなくてちょっと出てもいい気がしますよね。この辺は駐車場がないのがデメリットだよね。
今はまちの中が寂れていく傾向にあって、さびれているところは駐車場がないところ。羽生だけじゃなくて加須でも行田でもね。昔はお店が凄い売れたころに建てたから目いっぱいお店にしちゃうんだよ。だから駐車場のことは考えなかった。

—これからどのような活用の仕方があると思いますか?

子供は商売する気がないので、端的に言えば5年後くらいに壊そうと思っていました。ですが今回こういう話があったので、協力できれば協力したいと思っています。壊すのもお金がかかるのでね(笑)自宅がすぐ近くなのでいらないものを持ってくるのにちょうどいい倉庫なんですよね(笑)

—私たちは今高校生なんですけど、私たち若者にこういうのをやってもらいたいとかご希望はありますか?

店主)んー、若者が今なにを考えてるかわかんないのよねー(笑)

一同)(笑)

難しいんですけど、自分で何でも考えて自分でとりあえず行動を起こしてみるっていうのは大事ですよね。文化祭だって同じじゃない。何やろうって自分たちで考えてやって、それを少し大きい規模にしたものがお店だから。収支も計算するじゃない。あとは皆が逆にどういう風にしたいのか、運営をどうしたいのか。例えば福祉関係にもっていきたいのか物を売りたいのかそれを絞っていかないとあいまいなお店になってしまって何をしているのかわからなくなってしまう。ある程度テーマをはっきりさせないと。

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